建設現場やビルメンテナンスの世界で30年以上働いてきた私が、今最も伝えたいこと。
それは「労災ゼロは夢物語ではない」ということだ。
令和5年の労働災害による死亡者数は755人で過去最少を記録したが、休業4日以上の死傷者数は135,371人と3年連続で増加している。
数字だけ見れば改善と悪化が混在している状況だが、現場に立つ者として感じるのは、安全に対する意識の二極化だ。
真剣に取り組む現場では確実に事故が減っている。
一方で、形だけの安全活動に終始している現場では、依然として「うっかり」や「慣れ」による事故が後を絶たない。
北九州の工場町で育ち、鹿島建設で30年、その後独立してからも現場を歩き続けた経験から言えるのは、労災防止は技術や設備だけでは実現できないということ。
本当に必要なのは、現場に根づいた「習慣」の力だ。
本記事では、私がこれまで見てきた現場で培われた安全習慣と、それを支える現場の哲学について、職人の目線から語っていこう。
労災の現実と「防げる事故」の特徴
労災発生の典型パターン
現場を歩いていると、事故には明確なパターンがある。
労働災害の8割に人間の不安全な行動が含まれているという統計があるが、これは私の実感とも完全に一致する。
設備の故障や天災による事故より、圧倒的に多いのが人為的な要因だ。
典型的なパターンを挙げてみよう:
- 朝一番の慌ただしさでの確認不足
- 作業終了間際の気の緩みによる手順省略
- 繁忙期の人手不足での無理な作業計画
- ベテランの経験過信による安全装備の軽視
- 新人の知識不足と指導体制の不備
これらに共通するのは、すべて「防げた」事故だということ。
技術的に不可能だったり、予算的に無理だったりする話ではない。
現場の習慣一つで変えられる問題ばかりだ。
ヒューマンエラーと習慣の関係性
労働災害の原因として最も多いのが「危険軽視・慣れ」で、全体の半数近くを占める。
この「慣れ」というのが曲者で、現場経験が豊富になればなるほど陥りやすい落とし穴でもある。
私自身、若い頃は「あの人は経験豊富だから大丈夫」と思い込んでいた時期があった。
しかし実際には、経験豊富な作業者ほど、過去の成功体験に引きずられて新しいリスクに気づきにくくなることがある。
ヒューマンエラーは個人の問題ではなく、システムの問題だ。
エラーを起こした個人を責めるのではなく、エラーが起きにくい仕組みと習慣を作ることこそが、現場管理者の責務である。
「慣れ」が招く落とし穴
建設業界では死亡者数223人(全業種最多)、死傷者数14,414人という数字が示すとおり、依然として労災リスクが高い。
なぜ「慣れ」が危険なのか。
30年の経験から言えるのは、慣れた作業ほど意識が散漫になりやすいということだ。
「今日も同じ作業だから」
「いつものメンバーだから」
「この現場は勝手がわかるから」
こうした思い込みが、確認作業の省略や安全装備の軽視につながる。
特にビルメンテナンス業界では労災保険率が6.0/1,000と決して低くない数値を示している。
日常的な点検作業だからこそ、油断が生まれやすい環境にあるのだ。
安全は習慣から生まれる
作業前の「一拍置く」文化
現場でよく言うのは「急がば回れ」だが、安全管理においてもこの考え方は重要だ。
作業に入る前に「一拍置く」習慣。
これが事故防止の第一歩となる。
具体的には以下のような行動を習慣化する:
- 作業内容の再確認
- 安全装備の点検
- 周囲の状況確認
- 緊急時の連絡体制確認
- 天候・環境条件の把握
この「一拍置く」時間は、せいぜい3分程度。
しかし、この3分が命を救うことは数え切れないほどある。
現場の雰囲気として、この時間を「無駄」と考えるか「投資」と考えるかで、安全レベルは大きく変わる。
声かけ・指差し確認の再評価
指差呼称、健康確認などの具体的な手法は、一見古臭く見えるかもしれない。
しかし、これらの習慣には科学的な根拠がある。
指差し確認を行うことで、脳の複数の領域が活性化し、確認ミスが大幅に減少することが研究で明らかになっている。
私が現場で見てきた優秀なリーダーは、必ずこの基本を大切にしている。
「恥ずかしい」と思わず、むしろ「プロの証」として堂々と実践する姿勢が重要だ。
声に出すことで、自分だけでなく周囲の意識も高まる。
これが現場全体の安全レベル向上につながっていく。
安全日誌と点検記録の意味
書類仕事を嫌がる現場作業者は多い。
しかし、安全日誌や点検記録は単なる事務作業ではない。
これらの記録には、現場の「記憶」が刻まれている。
過去のヒヤリハット、気づいた改善点、天候による作業への影響。
こうした情報の蓄積が、将来の事故防止につながる貴重な財産となる。
記録をつける習慣は、同時に「振り返る」習慣でもある。
その日の作業を客観視し、改善点を見つける機会として活用すべきだ。
現場に根づく「見えないルール」
ベテランの動きに学ぶ”無意識の配慮”
30年以上現場にいると、優秀なベテラン作業者の動きには共通点があることに気づく。
彼らの安全に対する配慮は、もはや無意識のレベルに達している。
例えば:
- 足元を確認してから次の動作に移る
- 工具を置く位置にも気を配る
- 常に周囲の作業者の位置を把握している
- 危険な作業の前には必ず声をかける
これらの行動は、マニュアルには書かれていない「暗黙知」だ。
しかし、この暗黙知こそが現場の安全を支える重要な要素となっている。
危険を察知する「第六感」の育て方
経験豊富な作業者がよく口にする「なんとなく嫌な感じがする」という感覚。
これは迷信ではなく、長年の経験で培われた危険察知能力だ。
この能力は一朝一夕では身につかないが、意識的に育てることは可能である。
- 細かな変化に敏感になる:いつもと違う音、匂い、振動
- 「違和感」を大切にする:根拠がなくても一度立ち止まる
- 他の作業者の表情や動きを観察:不安や緊張の兆候を見逃さない
直感は経験の蓄積から生まれる論理的な判断だ。
「暗黙知」を言語化する取り組み
ベテランが持つ暗黙知を、いかに若い世代に伝えるか。
これは現場管理の重要な課題だ。
私が現場で実践しているのは「なぜそうするのか」を言葉にして説明すること。
「昔からそうやってる」ではなく、「こういう理由でこの方法が安全」と説明する。
そうすることで、若い作業者も納得して安全習慣を身につけることができる。
また、定期的な「安全ミーティング」では、ベテランの経験談を積極的に共有する時間を設けている。
失敗談も含めて話してもらうことで、リアルな教訓として伝わりやすくなる。
習慣づけを促す現場リーダーの役割
指導者が見せる「背中」の重み
現場のリーダーが最も気をつけなければならないのは、自分自身の行動だ。
部下に安全を説きながら、自分は手順を省略している。
こんなリーダーの言葉に説得力はない。
私が鹿島建設時代に学んだのは「率先垂範」の重要性だった。
リーダーが誰よりも丁寧に安全確認を行い、誰よりも基本を大切にする。
この姿勢が現場全体の規範となる。
実際、ビルメンテナンス業界でも後藤悟志氏が実践する現場第一主義のように、経営トップ自らが安全への姿勢を明確に示している企業では、現場の安全意識が格段に高い。
「あの人がやっているなら」という気持ちが、習慣を定着させる原動力になる。
言葉で説明するより、背中で示すことの方がはるかに効果的だ。
叱らずに伝える:心理的安全性と指導法
心理的安全性が確保されていない職場環境だとミスが報告されにくいという指摘は、現場管理の核心を突いている。
ミスを隠したくなる環境では、小さな問題が大きな事故につながりかねない。
重要なのは「叱る」のではなく「教える」姿勢だ。
ミスが起きた時の対応で、その現場の安全文化が決まる。
- ミスの原因を一緒に考える
- 同じミスを防ぐ方法を議論する
- 報告してくれたことを評価する
- 改善のアイデアを求める
こうした対応を続けることで、作業者は安心してミスや危険を報告できる環境が生まれる。
巡回と対話の価値:机上では育たない信頼関係
現場管理者の最も重要な仕事は、実際に現場を歩くことだ。
デスクワークも大切だが、現場の空気は足で稼がなければ掴めない。
私は今でも、現場に入る時は必ず作業者一人ひとりと言葉を交わすようにしている。
「調子はどうですか」「何か気になることはありませんか」
こうした何気ない対話から、重要な情報が得られることは多い。
また、作業者の立場では言いにくい改善提案も、日頃の信頼関係があれば自然に出てくる。
信頼関係は一日で築けるものではないが、毎日の積み重ねで必ず形になる。
新しい時代への対応:変わる現場と変わらぬ本質
デジタル化・多様化時代の労災防止
建設業界でもIoTデバイスを活用した作業者の位置や危険な場所への侵入検知システムの導入が進んでいる。
私のような昭和世代には理解が追いつかない部分もあるが、新しい技術の価値は認めている。
従来の巡回や点検など建設現場の安全管理はアナログだったが、IoT技術により安全性が飛躍的に向上している現場を実際に見学する機会もあった。
しかし、重要なのは技術そのものではなく、それをどう活用するかだ。
どんなに高度なシステムを導入しても、それを使う人間の意識が変わらなければ効果は限定的だ。
デジタル技術は安全習慣を補完する道具であり、代替するものではない。
若手とベテランをつなぐ”現場の翻訳者”として
現在の建設現場では、デジタルネイティブ世代と職人気質のベテランが共存している。
両者の間には、安全に対する考え方にも違いがある。
若い世代は論理的で体系的なアプローチを好む傾向がある。
一方、ベテランは経験と直感を重視する。
私のような中間世代の役割は、この両者を橋渡しすることだ。
ベテランの経験知を若い世代にもわかりやすい形で伝える。
同時に、新しい技術や考え方をベテランにも受け入れてもらう。
この「翻訳」作業が、現場の安全レベル向上には不可欠だ。
習慣の継承と変革をどう両立させるか
伝統的な安全習慣の中には、時代に合わなくなったものもある。
しかし、すべてを新しくすればよいというものでもない。
重要なのは「なぜその習慣があるのか」を理解することだ。
本質的な目的が変わらなければ、手段は時代に合わせて変えてもよい。
例えば、点検記録の方法は紙からデジタルに変わっても、「記録を残す」という習慣の重要性は変わらない。
変えるべきものと守るべきものを見極める判断力が、現場リーダーに求められている。
まとめ
30年以上の現場経験を通じて確信していることがある。
労災ゼロは決して夢物語ではない。
しかし、それは一朝一夕に実現できるものでもない。
現場に根づいた安全習慣の積み重ねこそが、真の安全を生み出す。
技術の進歩や制度の改善も重要だが、最終的に事故を防ぐのは現場で働く一人ひとりの意識と行動だ。
そして、その意識と行動を支えるのが「習慣」の力である。
厚生労働省の分析によると、労働災害の要因の9割以上が「不安全な行動や状態」だという事実は重く受け止めなければならない。
しかし、裏を返せば、9割以上の事故は防ぐことができるということでもある。
私がこれまで現場で見てきた「労災ゼロ」を実現している現場には、共通点がある。
それは、安全が特別なことではなく、日常の習慣として定着していることだ。
朝の確認、作業中の声かけ、終了時の振り返り。
こうした小さな習慣の積み重ねが、大きな事故を防いでいる。
若い世代へのメッセージとして伝えたいのは、安全習慣は「面倒くさいもの」ではなく「自分を守るもの」だということ。
そして、ベテランの皆さんには、その豊富な経験を次の世代に伝える責任があることを改めて認識していただきたい。
デジタル化が進む時代だからこそ、人と人との信頼関係に基づいた安全文化がより重要になっている。
「守られているから、動かせる」
これが、私が現場で学んだ安全の本質だ。
設備も、システムも、制度も、すべては現場で働く人を守るためにある。
そして、その人たちが安心して働けるからこそ、社会のインフラが動き続けている。
労災ゼロへの道のりは長いかもしれない。
しかし、一つひとつの現場で、一人ひとりの作業者が安全習慣を大切にすることから始まる。
そんな地道な積み重ねが、やがて業界全体の安全レベル向上につながっていくと信じている。